2026年6月、ウィンブルドンに向けてモンテカルロで練習するシナーの姿に、ファンが小さな「異物」を見つけた。左の二の腕に貼られた、コインほどの白い円盤。あれは何だ——テニス界の関心を呼んだこの器具について、テニス専門メディアのPunto de Breakが「CGMと見られる」と報じた(出典:Punto de Break)。
CGM——Continuous Glucose Monitoring、持続血糖モニタリング。血糖値を連続で測るセンサーだ。なぜテニス選手が血糖を測るのか。そもそもこの器具は何を、どうやって測っているのか。今日は、いまスポーツ界で静かに広がっているこのウェアラブルの「仕組み」を、しっかり解き明かしてみたい。
最初に断っておくと、この記事はシナーの健康状態について何かを推測するものではない。あくまで「CGMという機器そのもの」の科学的な解説だ。シナー自身、報道のきっかけにはなったが、本人や陣営がこの器具について公式に説明したわけではなく、具体的な製品やメーカーも分かっていない。そこは「CGMと見られる、詳細は未確認」という前提で読んでほしい。
まず驚きの事実:CGMは「血液」を測っていない
CGMの仕組みで、多くの人が最初に驚くのはここだ。血糖を測るセンサーなのに、血液を測っていない。
CGMが測っているのは、血液ではなく「間質液(かんしつえき / interstitial fluid)」——皮膚の下で細胞のまわりを満たしている液体のグルコース濃度だ(出典:Cleveland Clinic)。指先に針を刺して血を一滴採る従来の血糖測定とは、まったく別の原理で動いている。
ではどうやって測るのか。センサー本体から、髪の毛より細い柔らかいフィラメント(繊維状の電極)が皮膚の下に挿入されている。装着時にはアプリケーターの針で刺し込むが、針はすぐ抜かれ、フィラメントだけが皮下に残る。あとはコイン状のパッチが腕に貼り付いたまま、7〜15日ほど(製品による)測り続ける。
仕組みの核心:グルコースを「燃やして」電流に変える
フィラメントの先端では、何が起きているのか。ここがCGMの心臓部だ。
センサー先端には酵素が固定されていて、間質液中のグルコースがそこで化学反応(酸化)を起こす。グルコースを”燃やす”と、その量に比例した微弱な電流が生じる。この電流の大きさからグルコース濃度を逆算する——いわゆる電気化学式のセンサーだ。実際、こうしたセンサーの公的な技術文書にも「間質液からのグルコースの酸化を介して電流を生成する」と記載されている(出典:Abbott Lingo FDA 510(k) K233655)。
得られた数値は、パッチ内のトランスミッターがBluetoothでスマホアプリや専用リーダーに送る。これで、一日中の血糖の動き——食後の急上昇(スパイク)、運動中の低下、ストレスへの反応——がグラフで連続的に見える、という仕組みだ。
代表的な製品には、Abbottの「FreeStyle Libre」シリーズや、Dexcomの「Stelo」などがある(出典:Abbott MediaRoom)。装着部位として上腕の後ろが選ばれるのは、脂肪が適度にあり、運動中もぶつけにくいからだ。
ひとつの弱点:血糖との「タイムラグ」
この「間質液を測る」という方式には、知っておくべき弱点がある。血糖値そのものより、反応が少し遅れるのだ。
血液中のグルコースがまず上下し、それを追って間質液のグルコースが動く。だから両者の間にはタイムラグがある。安定しているときで約5〜20分、しかも食事や運動で血糖が急変するときほど、この遅れは大きくなる(出典:Accu-Chek)。
つまり皮肉なことに、急激な変化が起きている瞬間こそ、CGMの数値は実際の血糖から最もズレやすい。運動中の精度が安静時より落ちることは、複数の研究でも確認されている。アスリートが使う場面では、この特性を頭に入れておく必要がある。
なぜアスリートが使うのか:糖尿病の道具を、パフォーマンスに
そもそもCGMは、糖尿病患者のための医療機器として確立したものだ。インスリンの量を判断するために、血糖を24時間見張る——そこでは命に関わる重要なツールである。
では、健康なアスリートはなぜ使うのか。目的が違う。彼らがCGMに求めるのは「自分の身体のパターンを知る」ことだ。具体的には、トレーニングに十分なエネルギーを持って臨めているか、長いセッションの途中でエネルギーが落ちていないか、どんな食事が血糖の乱高下を招くか——そうした個人の傾向を把握するために使う(出典:GSSI)。
テニスのような長時間・高強度・暑熱下のスポーツでは、エネルギー管理が勝敗を左右する。たとえば、運動の30〜60分前に糖質を摂ると、人によっては運動開始直後に血糖が急落する「反応性低血糖」が起きることがある。症状はめまい・吐き気・脱力など。CGMは、こうした反応を起こしやすい個人を見つける手がかりになりうる、とされる。実際、Abbottは2020年に世界初のアスリート専用グルコースセンサーを発売し、ツール・ド・フランスの選手が装着するなど、持久系スポーツを中心に広がった(出典:Abbott MediaRoom)。
ちなみに自転車競技では、UCI(国際自転車競技連合)が2021年に、レース中のグルコースなど代謝値を測るデバイスの使用を禁止している(出典:Cyclingnews)。一方、テニスでCGMの使用を禁じる規定は確認されていない。
静かに添えておきたい:「本当に効くのか」という論点
ここまでCGMの仕組みと用途を見てきたが、誠実に一点だけ添えておきたいことがある。健康なアスリートにとって、CGMがパフォーマンス向上に役立つという科学的証拠は、実はまだ限定的だということだ。
2025年の査読付きレビューは、持久系アスリートのCGMについてかなり踏み込んだ評価をしている。曰く、CGMは筋肉中のグリコーゲン量や糖質の流量を測っているわけではなく、「燃料センサー」としての有効性は限定的。そして——「(低血糖域の外の)特定の血糖値や血糖の安定性をパフォーマンスに結びつける証拠は、既存の主張に反して、存在しない」と明言している(出典:Performance Nutrition (2025))。
専門家も慎重だ。健康な人ではそもそも一過性の血糖スパイクは普通の現象で、必ずしも異常を意味しない。バース大学のJavier Gonzalez教授は「CGMは糖尿病の人には素晴らしいツールだが、血糖コントロールが良好な人には誤解を招きうる。健常者がCGMに頼ると、不必要な食事制限につながりうる」と述べている(出典:University of Bath)。
誤解しないでほしいが、これはCGMを否定する話ではない。CGMの価値は「血糖を見ればパフォーマンスが予測できる」ことではなく、むしろ「自分の身体への気づきを促し、行動を変えるきっかけになる」ことにある、というのが研究者の共通理解になりつつある。万能の魔法でもなければ、無意味なガジェットでもない。その中間にある、使い方次第のツール——それが現時点での正確な位置づけだ。
まとめ:身体の内側を「見る」時代へ
シナーの腕の器具を起点に、CGMという機器を整理すると、こうなる。
- 正体:持続血糖モニタリング(CGM)と見られるセンサー。ただし具体的な製品・メーカーは未確認
- 仕組み:血液ではなく皮下の「間質液」のグルコースを測る。フィラメント先端でグルコースを酸化させ、生じる電流から濃度を逆算する電気化学式
- 弱点:血糖との間にタイムラグ(5〜20分)があり、急変時ほどズレやすい
- 用途:糖尿病では確立した医療機器。健康なアスリートは「身体のパターン把握」のために使う
- エビデンス:健康な人でのパフォーマンス向上効果は証拠が限定的。気づきと行動変容のツールとして捉えるのが妥当
かつてアスリートが頼れるデータは、ストップウォッチが刻むタイムや、コーチの目だけだった。それがいまや、心拍、睡眠、心拍変動、そして血糖まで——身体の内側でリアルタイムに起きていることを「見る」時代になった。CGMは、その大きな流れの一つのピースだ。
もちろん、データは万能ではない。数値に振り回されれば、かえって判断を誤る。ボールの打ち方を知ることと同じくらい、「自分の身体が内側でどう反応するか」を理解すること——そして、そのデータをどこまで信じ、どこから疑うかを見極めること。トップ選手の戦いは、コートの外側の、こんなミクロな領域にまで広がっている。









