引退から約2年。いまはゴルフに多くの時間を費やすサー・アンディ・マレーだが、テニスから完全に離れることはできないらしい。コーチとして経験を積む機会があれば、迷わず引き受ける。最初の相手はジョコビッチだった。そして2人目が、英国の後継者ジャック・ドレイパー——少なくとも、2026年のグラスシーズンのあいだは。
2026年5月12日、ドレイパーがチーム刷新を発表し、マレーがグラスシーズンを通じて加わることが明らかになった(出典:ATP公式)。元世界1位が、現役の同胞を指導する。今日は、この「コーチ・マレー」という、まだ新しい横顔に焦点を当てたい。彼は1人目の教え子ジョコビッチで何を得て、2人目のドレイパーに何をもたらそうとしているのか。
最初の教え子はジョコビッチだった ― そして半年で終わった
マレーのコーチ業を語るには、まずジョコビッチとの「実験」から始めなければならない。
長年のライバルだった2人が、コーチと選手として組む——2024年11月のこのニュースは、テニス界を大いに驚かせた。マレーにとって初のコーチ業。期間は2024年11月から2025年5月13日までの、約半年だった(出典:ATP公式)。
成果はどうだったか。2025年全豪オープンで、ジョコビッチはアルカラスを破って準決勝に進出した。だが左ハムストリングの負傷でズベレフ戦をリタイア。マレー指導下でのジョコビッチの成績は12勝7敗、タイトルはなかった(出典:ATP公式)。
そして2025年5月13日、関係は「相互の合意」で解消された。ジョコビッチは全仏前にこう説明している。「双方が同じ考えだった。彼の主導でも私の主導でもなく、二人で話し合い『ここで止めるべきだ』と言った」(出典:ESPN)。短く、しかし濃密な実験だった。
マレーがジョコビッチで学んだこと
この半年は、マレー自身にとって貴重な「コーチ修業」になった。重要なのは、彼がそこで自分の得手・不得手を率直に見つめたことだ。
マレーは振り返って、試合そのものより「試合前の準備」——コミュニケーション、練習コートやヒッティングパートナーの手配、戦略の策定——にストレスを感じたと語っている。一方、試合が始まってボックスから客観的に観察する局面は、むしろ得意だったという。
さらに正直なのは、技術指導について弱点を認めている点だ。ジョコビッチがより踏み込んだ技術的フィードバックを求めたのに対し、自分はそれを提供することに自信が持てなかった、と。「もし将来またコーチをするなら、この点に取り組みたい」とまで述べている(出典:The Washington Newsday)。
トップ選手だった人間が、コーチとしては駆け出しであることを率直に認める——この自己認識が、2人目の教え子選びに活きることになる。
2人目はドレイパー ― なぜ引き受けたのか
ジョコビッチとの経験を踏まえ、マレーが次に選んだ(正確には、依頼を受け入れた)のがジャック・ドレイパーだ。
なぜ引き受けたのか。マレーはThe Telegraphに、明快な理由を語っている。毎週ツアーに帯同するのは「今やりたいことではない」。だからこそ引き受けられるコーチ職はごく限られる、と。そのうえで、ドレイパーの条件が理想的だった。ドレイパーが車で30分の距離に住んでいるため、スペインや米国の選手より遥かに多くの時間を共有できる。「(遠方の選手では)うまくいかず、本当に手伝えている感覚を持てないだろう」(出典:The Telegraph)。
条件を整理すると、英国内・約1か月・得意のグラス・クライマックスはウィンブルドン。家族との時間を犠牲にせず、自分の最も得意な領域で手伝える。The Telegraphによれば、関与は年間約10週とされる(出典:The Telegraph)。ジョコビッチで「準備の負担」に懲りたマレーにとって、これ以上ない条件だったわけだ。
ちなみに、ドレイパーにとってマレーは幼少期からの憧れの存在だ。発表時、ドレイパーは「アンディは信じられない人だ。彼なしでは今の自分はない」と語っている(出典:LTA公式X)。2人は英国出身同士で、デビスカップの元チームメイトでもある。
マレーは何をもたらせるのか ― 技術ではなく「経験」
ここで、コーチとしてのマレーの強みを冷静に整理しておきたい。
本人が認めるとおり、彼は細かい技術指導を最も得意とするコーチではない。では何をもたらせるのか。兄ジェイミー・マレーの言葉が的を射ている。弟が何を提供できるかを問われ、こう答えた。「これらの大会に向けた準備の仕方、勝つために何が必要かの理解、そして英国のナンバーワン選手であることに伴うプレッシャーと、それに付随するすべて。ジャックが経験することを理解するのに、弟ほど適任の人物はいない」(出典:Sky Sports)。
つまりマレーの付加価値は、技術論ではなく**「頂点を知る経験」**にある。ビッグマッチとプレッシャーへの対処、グラスの専門知識、そして——後述するように——故障から這い上がった当事者としての知見。これらは、コート脇で打ち方を教えること以上に、いまのドレイパーに必要なものかもしれない。
そしてグラスでの適任性は、データが雄弁に語る。マレーはクイーンズ・クラブでシングルス史上最多の5勝(2009・2011・2013・2015・2016年)。2013年にはフレッド・ペリー以来77年ぶりの英国人ウィンブルドン王者となり、2016年にも制した(出典:Wikipedia)。芝を教えるのに、これ以上の経歴はそうない。
なぜいま、ドレイパーにコーチが必要なのか
マレーがドレイパーを引き受けた背景には、ドレイパーが置かれた苦しい状況がある。
ドレイパーは2025年前半、鮮烈な飛躍を見せた。インディアンウェルズ(マスターズ1000)優勝、マドリードなどで決勝進出、そして2025年6月に自己最高の世界4位まで上り詰めた(出典:Sky Sports)。英国期待の星が、ついにトップ5に到達した瞬間だった。
ところが、そこから故障が彼を蝕む。2025年US Openを腕の負傷で棄権しシーズンを早期終了(出典:Sky Sports)。2026年は2月に復帰しインディアンウェルズでベスト8に入ったものの、4月のバルセロナで膝の腱を痛め、再び離脱した(出典:ATP公式)。最後の試合は2026年4月中旬。世界4位だったランキングは、約1年で113位前後まで下落した(出典:The Telegraph)。
才能の頂点で、身体が言うことをきかなくなる——マレー自身が現役時代に何度も味わった苦しみだ。だからこそ、彼がドレイパーに寄り添う意味がある。
マレーのドレイパー評 ―「予想以上に完成された選手」
ここからは事実ではなく、マレーの主観的な評価として読んでほしい。
数週間ドレイパーと練習した後、マレーはその才能に驚いたと語っている。The Telegraphでの発言だ。
彼と行ったセッションで、予想していた以上に感心させられた。手伝い始める前から彼は本当に上手いと思っていた。彼は学ぶのが速い。ゲームにほとんど穴がない。おそらく予想していたより完成された選手だ (アンディ・マレー、2026年6月 / 出典:The Telegraph)
「ゲームにほとんど穴がない」「完成された選手」。ドレイパーは身長193cmの左利きで、左利きの強力なサーブと、ナダルに比較される重いフォアハンドが武器だ。実は日常生活では右利きで、その右手の力が両手バックハンドに活きているという(出典:Tennis.com)。マレーの評価は、こうしたサーブとフォアの強みに加え、バックハンド、ネットプレー、そして習得の速さといった総合性を指しているのだろう。
ただし、これはあくまでコーチとしてのマレーの見立てであって、客観的な実績ではない。実際、マレー自身が冷静に次のステップを示している。「彼のテニスは素晴らしい。だが昨年は故障で多くの問題を抱えた。次のステップはコートに戻り、いくつかの大会でプレーし、試合の週を積み重ね、自分の身体への自信を取り戻すことだ」(出典:Punto de Break)。才能への称賛と、現実的な課題認識。この両方を併せ持つのが、コーチ・マレーの目線だ。
まとめ:レンドルがマレーにしたことを、マレーがドレイパーに
コーチ・マレーの歩みを整理すると、こうなる。
- 1人目=ジョコビッチ:2024年11月〜2025年5月の約半年。12勝7敗、タイトルなし、相互合意で解消。準備の負担と技術指導の課題を自覚する「修業」になった
- 2人目=ドレイパー:2026年グラスシーズン限定(年間約10週)。車で30分・1か月・得意のグラスという理想的条件で受諾
- もたらせるもの:細かい技術より、頂点の経験・プレッシャー対処・グラスの知見・故障からの復帰経験
- 評価:「予想以上に完成された選手」(ただしマレーの主観)。当面の課題は試合勘と身体への自信の回復
思い返せば、マレー自身もかつて、イバン・レンドルというグランドスラム王者をコーチに迎えて、ウィンブルドンの「77年の壁」を破った。トップ選手の経験を、次の世代が借りて飛躍する——マレー×ドレイパーは、その構図の再演とも読める。レンドルがマレーにしたことを、今度はマレーがドレイパーにしようとしているのかもしれない。
もっとも、すべては仮定の上にある。ドレイパーがまずコートに戻れるか。グラスシーズンの後も2人の関係が続くのか。それとも、ジョコビッチのときのように短い実験で終わるのか。答えが出るのは、これからだ。来週のイーストボーン、そしてウィンブルドン——コーチ・マレーの2作目を、まずはその目で確かめたい。









