先日、スペインのテニス界を開拓した第一人者であるマニュエル・サンタナ氏が83歳で亡くなり、世界中のテニスユーザーが悲しみに暮れた。彼は現在も続くテニス大国スペインのいわゆる祖であり、サンタナ氏がいなければ、デビスカップで無類の強さを誇ったナダル、フェレーロ、フェレール、ベルダスコ、ロペスらによって編成されていた”スペインの無敵艦隊”が誕生することはなかっただろう。今回は、そんな偉大なレジェンドであるモンタナ氏のニッチなエピソードを紹介させていただきたい。
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My thoughts are with good friend Manolo Santana, who has passed away. A clay court maestro, Manolo famously said grass was for cows, but still managed to win Wimbledon in 1966, and inspired generations of Spanish players with his renowned heavy topspin and fighting spirit. pic.twitter.com/6GzSbzDcPT
— Rod Laver (@rodlaver) December 11, 2021
・幼少期の極貧生活
サンタナ氏は1938年5月10日、スペインの首都マドリードのロペス・デ・ホヨス通りで生まれた。父親が当時のスペインの独裁政権により投獄されていた過去もあり、幼少期の彼の家庭は決して裕福ではなく、家は12人家族が1つのバスルームを共有するという劣悪な環境だった。そんなモンタナ氏は10歳ごろからテニスに興味を持ち始め、家計を助けるために地元のテニスクラブClub de Tenis Velazquezでボールボーイとして働いていた。給料は6ペセタ(おそらく今の日本円で約1万円ほど)であり、そのうちの4ペセタは家計に使い、残りの2ペセタは自分のためにとっておいたらしい。
・スペイン人初のローラン・ギャロス制覇
モンタナ氏は、1961年に”エンモ”の愛称で知られるグランドスラムをシングルスで12回制覇したロイ・エマーソンと、現在は全豪オープンのセンターコートの名前の由来ともなっている伝説の名選手であるロッド・レーバーを倒し、ローラン・ギャロスで自身初のグランドスラムタイトルを獲得した。この偉業はスペイン人初のパリでのタイトルであり、カルロス・モヤやフアン・カルロス・フェレーロ、ラファエル・ナダルらが後に歩む道を開拓した記録的な出来事だった。ちなみに、モンタナ氏は1964年にもローラン・ギャロスを制覇している。
・ウィンブルドンでの名言
モンタナ氏が活躍していた時代において、小さい頃からクレーコートでプレーして育つスペイン人選手がウィンブルドンで優勝することは不可能だと言われていた。このことについては本人も自覚していたようで「テニスコートの芝は牛に食わせるためのものだ」という名言はこれが由来で生まれた。しかし、彼はウィンブルドンで予想外の活躍を見せることになる。なんと1966年のウィンブルドンの決勝で、当時ダブルスの名手として活躍していたデニス・ラルストンを倒し、見事優勝して見せたのだ。この時の逸話として、モンタナ氏が決勝戦の前に、たった3本のラケットを持ち地下鉄で試合会場に向かったという話が残っている。スペイン人男子選手でウィンブルドンを制覇したのはこのモンタナ氏とナダルだけしかいない。
・引退後の主な活動
1980年に引退した後は、デビスカップのスペイン代表監督を務め、テニス界を裏方から引っ張る重鎮として活躍したモンタナ氏。しかし、彼が引退した後の特筆すべき実績は、マドリードOPのディレクターを務め、2009年にWTAのカレンダーへ同大会を追加したことだろう。さらに、マドリードOPを全仏の前哨戦として機能させるために、開催時期を5月にずらし、サーフェスもインドアハードからクレーコートへと変更する働きかけをした。時には青いクレーコートを採用したせいで選手から反感を買うこともあったが、モンタナ氏は約20年もの間、歴史あるマスターズ大会の威厳を守り続けるために、密接にマドリードOPの運営に関わり続けた。
モンタナ氏は彼の遺言通り火葬され、生まれ故郷であるマドリードに埋葬されることとなっている。彼の残したレガシーは、永遠に残り続けることだろう。彼とご家族のご冥福をお祈りする。
(画像=@ DavidFerrer87)