テニスの試合で、私たちはショットや戦術や勝敗に目を奪われる。だがコートの外側、観客の視界に入らないところに、勝利を支える「見えない仕事」がある。その一つがストリンガー——ラケットにガットを張る職人だ。
2026年ローラン・ギャロスを制したアレクサンダー・ズベレフには、このストリンギングをめぐる、ちょっと常軌を逸したこだわりがある。それを、Headブランドで彼を担当するストリンガー、マルティン・マン氏が、あるインタビューで明かした(出典:Punto de Break)。
「張りたて」への執着。「0.1キロ」単位のテンション変更。そして左右で違うテンションの「非対称」な張り。今日は、世界トップ選手が用具の細部にどこまで神経を注いでいるのか——その驚くべき世界を覗いてみたい。
こだわり①:必ず「マシンから下ろしたて」でなければならない
まず、ズベレフは「張りたて」のラケットに異常なまでにこだわる。マン氏の言葉を引こう。
サーシャはかなり特別なクライアントだ。彼は本当に張りたての、マシンから下ろしたてのラケットを好む (マルティン・マン氏、Headのストリンガー / 出典:Punto de Break)
どのくらいの頻度で替えるのか。マン氏によれば、こうだ。
交換頻度は非常に高い。特に試合中はそうだ。ボールチェンジのたびにマシンから下ろしたてのラケットを欲しがるからだ。彼は新しいラケットで試合を始め、7ゲーム後に次のラケットを受け取る (出典:Punto de Break)
試合開始時に張りたて、7ゲーム後に交換、以降はおおむね新しいボールが入るたびに張りたてへ。実はこの「7ゲーム→以降9ゲーム」というリズムは、テニスのボールチェンジ規則(最初の7ゲーム後、その後は9ゲームごと)とぴたり一致する。**ズベレフは「新しいボールが入るたびに、新しいラケットに替える」**わけだ。(なお「9ゲームごと」の部分はマン氏の直接の発言ではなく媒体の補足なので、念のため。)
これは奇行に見えて、実は理にかなっている。鍵は、ポリエステルガットの物性にある。
なぜ張りたてなのか:ポリは「張った瞬間から死んでいく」
ストリングは、張った瞬間からテンションを失い始める。とりわけプロが使うポリエステル系のガットは、その低下が速い。
用具研究で定評あるTennis Warehouse Universityは、こう説明している。「すべてのストリングはラケットに張られた瞬間からテンションを失う——1分で最大15ポンドも。ポリエステルはナイロンより、ナイロンはガットより多く失う」(出典:TWU)。一般的な目安として、ポリは最初の24時間で1〜2割前後のテンションを失うとされる。
しかも厄介なのは、**テンションが残っていても、ポリは弾力(スナップバック)が先に失われて「死ぬ」**ことだ。打球感が急速に変わっていく。だからプロは、まだ使えそうに見えるラケットでも惜しみなく替える。ズベレフの「張りたて信仰」は、このポリの宿命に対する、極端だが筋の通った反応なのだ。
念のため付け加えると、頻繁な交換自体はトップ選手では珍しくない。フェデラーは1試合に9本の張りたてを用意していたし、ナダルは番号を振った6本を常に携行していた。ズベレフはその「程度」が際立っている、ということだ。
こだわり②:「0.1キロ」という、常軌を逸した精度
ここからが、このインタビューで最も驚かされる部分だ。ズベレフは、テンションを0.1キロ単位で変えるよう要求するという。
彼は意図的に、ごく頻繁に、わずか0.1キロ単位でテンションを変更する。それだけ敏感で違いが分かるからだと本人が言っている (出典:Punto de Break)
0.1キロ。つまり100グラムだ。気温が上がったとき、ボールが新しくなったとき、コートから直接ラケットを受け取って微調整する、とマン氏は言う。一般にプロのテンション調整は0.5〜1キロ単位が普通なので、0.1キロというのは桁違いに細かい。
気温による調整自体は、物理的に正しい。ガットは暑いとテンションが緩んでパワーが出て、寒いと硬くなる。だから暑い日は高めに、寒い日は低めに張って感触を一定に保つ——これはストリングの常識だ(出典:TWU 温度の影響)。ズベレフが気温やボールに応じて微調整させること自体は、理にかなっている。
ただ——**「0.1キロの差を本当に体感できるのか」**という点については、少し立ち止まって考えてみたい。
「人は0.1キロの違いが分かるのか?」という静かな問い
ここは、ズベレフのこだわりを否定するためではなく、より深く味わうために触れておきたい論点だ。
ストリングのテンション知覚については、実は学術研究がある。Bower と Cross による研究(2003年)では、上級者レベルのプレーヤー41人をテストしたところ、**5キロ以下のテンション差を正しく言い当てられたのは、わずか27%**だった。さらに37%は、10キロもの差すら識別できなかったという(出典:Journal of Science and Medicine in Sport)。エリート選手18人を対象にした2008年の続報でも、選手は概してテンション変化に鈍感だと報告されている。
5キロでも当てるのが難しい——その世界で、0.1キロ。この数字をどう受け止めるか。
一つの見方は、ズベレフが人類でも例外的に鋭敏な感覚の持ち主だ、というもの。もう一つは、0.1キロという数字そのものよりも、「自分は完璧に整えられたラケットで戦っている」という確信が、彼のパフォーマンスを支えているという見方だ。実際、先のBowerとCrossも「試合前に毎回張り替えることの物理的便益は疑わしいが、心理的便益はあるかもしれない」と述べている。
どちらが正しいかは、誰にも断定できない。だが、いずれにせよ確かなのは——その0.1キロへのこだわりが、ズベレフという選手の精神を整えているということだ。儀式とは、本来そういうものなのかもしれない。
こだわり③:左右で違う「非対称」テンション
もう一つ、マニアックなこだわりがある。ズベレフは、1本のラケットの中で異なるテンションを混在させることがある。
彼は片面を20.8キロ、もう片面を21.8キロで張るよう要求することがある (出典:Punto de Break)
「片面/もう片面」という表現が使われているが、1本のラケットで2つのテンションを張るとは、現実的にはメイン(縦糸)とクロス(横糸)で違うテンションにすることを意味すると読むのが自然だ。実際、用具メディアのTennisnerdは、ズベレフの室内大会での実測として「メイン20.5キロ/クロス21.5キロ」という、まさに非対称で低めの設定を報告している(出典:Tennisnerd)。マン氏の言う「20.8/21.8」とほぼ一致する。
なぜ左右で変えるのか。一般論として、メインとクロスのテンション差は打感やスピン、コントロールに影響する。ズベレフはメインにポリ(Head Hawk Touch)、クロスに柔らかいナチュラルガット(Babolat VS Touch)を組み合わせるハイブリッド使いだ(出典:Perfect Tennis)。柔らかいクロスのガットを少し高めに張って、ストリングベッド全体を引き締めコントロールを保つ——彼の「クロス(21.8)をメイン(20.8)より1キロ高く」という設定は、このセオリーと整合的に読める。クエルテンが全仏優勝時にクロスを高く張っていたのと同じ発想だ。
ここまで来ると、もはや用具という名の精密機械のチューニングである。
こだわり④:父シニアを介した、信頼の運用体制
これだけ繊細な要求を支えるのが、チームの連携だ。マン氏によれば、窓口は父であり、コーチでもあるアレクサンダー・シニアだという。
練習日のルーティンも把握している。父親が私と直接やり取りしているからだ (出典:Punto de Break)
そしてマン氏は、こう続ける。「40分前に電話してくれ、あるいは翌日用にラケットを預けてくれと頼めば、彼はプロセスを完璧に理解してくれる。…常に挑戦だが、私はそれが好きだ」。土壇場のリクエストに応えるため、ストリンガーがスケジュールを組み替えることも多いという。
この「相互理解」があるからこそ、0.1キロの微調整も、非対称の張りも、試合中のコート直結の調整も成立する。ズベレフのこだわりは、彼一人のものではなく、父とストリンガーを含めたチーム全体の作品なのだ。
まとめ:1グラムの差に、勝負を懸ける世界
ズベレフのストリングへのこだわりを整理すると、こうなる。
- 張りたて執着:試合開始時に張りたて、ボールチェンジごとに交換。ポリが「張った瞬間から死ぬ」物性への、極端だが筋の通った対応
- 0.1キロの精度:100グラム単位でテンションを変更。気温・ボールに応じてコート直結で微調整。一般的なプロ(0.5〜1キロ単位)より桁違いに細かい
- 非対称テンション:メイン20.8/クロス21.8。柔らかいガットを引き締めコントロールを保つ狙いと整合。実測値(20.5/21.5)も裏付け
- チーム運用:父シニアを窓口にした、土壇場にも応える信頼関係
一点だけ、誠実に添えておく。「0.1キロを体感できる」という部分は、マン氏とズベレフ本人の証言であって、知覚研究が裏付ける客観的事実ではない。だが、それを「気のせいだ」と切り捨てるのは野暮というものだろう。0.1キロが物理的に効くのか、心理的に効くのか——どちらにせよ、その一手間がズベレフを世界トップに押し上げてきたことは、ローラン・ギャロスのトロフィーが証明している。
私たちがテレビで見ているあの一打の裏には、100グラムのテンションに神経を尖らせる男と、それを支える職人がいる。テニスというスポーツの奥行きは、コートの外側にも、こんなに深く広がっている。









