【テニス】苦手なサーフェスが顕著な選手集【ナダルはインドアだと超弱い?】

 

テニスの長い歴史を振り返ってみると、特定のサーフェスで苦戦したエリートプレーヤーが実はかなり存在する。今回は、Tennis Majorsで特集されていた苦手なサーフェスが顕著な9人の選手達を、スタッツと絡めながら紹介させていただきたい。

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ダニール・メドベデフ

今年のクレーコート・シーズンの大きなストーリーラインは、ダニール・メドベデフが赤土で勝利を重ねることができなかったことだった。メドベデフのクレーコートでの戦績はお世辞にも良いとは言えず、クレーコートでの生涯戦績は15勝21敗となっている。これは、ハードコートでの74%の勝率、芝での64%の勝率をはるかに下回る41%の勝率に相当する結果だ。

今シーズンのメドベデフは、2003年のアンディ・ロディック以来、BIG4以外のプレーヤーとして初めて世界1位の座に就く可能性があったため、クレーコートでの成績の物足りなさが、例年よりも特に注目された。

ラファエル・ナダル

 
 
 
 
 
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2003年にナダルがツアーに登場したとき、彼がハードコートや芝でここまでの成績を残すとは多くの人が予想していなかった。ナダルのキャビネットにあるトロフィーは、88のタイトルのうち62のタイトルがクレーコートで獲得されたものだが、ハードコートやグラスコートの大会でも、ナダルは確実に力を発揮してきたのだ。しかし、インドアのハードコートでは、ナダルは数え切れないほどの苦汁を味わってきた。

シーズン最大のインドアトーナメントであるATPファイナルズでは、ナダルはタイトルを獲得した経験がなく、2回の準優勝で甘んじている。2010年はロジャー・フェデラーに3セットで敗れ、2013年はノバク・ジョコビッチにストレートで敗れた。また、ベルシーで開催されるパリ・マスターズでは、2007年に1度だけ決勝に進出したことがあるが、デビッド・ナルバンディアンに惨敗し、タイトルを獲得するまでには至らなかった。

ナダルがインドアで苦戦している理由の1つとして、彼の最大の強みであるトップスピンショットと身体能力の高さが、屋外のクレーコートやハードコートに比べて、室内ではそれほど必要とされない要因だということが挙げられる。ナダルのファンは、「インドアのシーズンはシーズンの後半で、彼は長時間のランニングで疲れきっている」とヒーローを擁護するが、ATPファイナルズのタイトルを獲得できていないのは、ライバル達と比べても明確に劣っている部分であり、彼の輝かしいキャリアの中で未だに獲得できていない数少ない重要なイベントの一つだと言えるだろう。

イワン・レンドル

レンドルは、その素晴らしいキャリアの中で、グランドスラムを8回、年末のチャンピオンシップを5回制覇した経歴を持っている。しかし、彼のキャリアに足りない部分があるとしたら、ウィンブルドンで優勝することが出来なかったことだ。

1982年、ウィンブルドンをスキップしたレンドルは、「芝生は牛が食べるために作られている」と弁明し、テニス界の名言として今も語り継がれている。その数年後、レンドルはやはりウィンブルドンで優勝したいと考えを改め、オーストラリアの伝説的プレーヤー、トニー・ロッシュをコーチとして雇い、得意としていたベースラインからのストローク戦から、攻撃的なサーブ&ボレーのスタイルに変えて、オール・イングランド・クラブでの優勝を目指した。

しかし、現実はそこまで甘くなかった。1986年のウィンブルドン決勝ではボリス・ベッカーに、1987年のウィンブルドン決勝ではパット・キャッシュに、いずれもストレートで敗れてしまった。レンドルは、8年間で5回も準決勝に進出することに成功しているが、ウィンブルドンのトロフィーはいつも彼の手からこぼれ落ちていった。

モニカ・セレス

 
 
 
 
 
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1993年にモニカ・セレスは、ライバルのシュテフィ・グラフの狂信的なファンであったギュンター・パルシェに、試合中にコートサイドから背中を刺されるという不幸な事件に巻き込まれたことで有名だ。その後は刺されたショックからか、PTSDにかかり2年半もの間コートから遠ざかってしまった。それが影響してか、グランドスラムを9回制覇しているセレスは、ウィンブルドンでの優勝という偉業を果たすことが出来なかった。

セレスの両手両打ちのグランドストロークは、展開の早いグラスコートとは相性が悪かったが、1992年には9度のウィンブルドン優勝経験を持つマルチナ・ナブラチロワを破り、決勝に進出するほどの実力は持っていた。決勝戦では、うなり声に対する抗議に気を取られたのか、本来の力を発揮できずにシュテフィ・グラフに敗れた。 セレスは長年にわたってトップ10の常連だったものの、その後の彼女は二度とウィンブルドンで再び準決勝に進出することはなかった。

パルシェに刺される前、セレスは女子テニスの歴史を塗り替えようとしていた。20歳になる前に、8つのグランドスラムを制覇していたのだから当たり前だ。もし、セレスが健康体でキャリアを過ごせていたら?ウィリアムズ姉妹やシャラポワの活躍はなかったかもしれない。

ジョン・マッケンロー

ローラン・ギャロスは、オープン時代の多くのトッププレーヤーが最後のハードルを越えるのに苦労したグランドスラムと言えるだろう。意外かもしれないが、ジョン・マッケンローも全仏オープンで優勝したことがない選手の一人だ。ジョン・マッケンローは、82勝3敗という驚異的な戦績を残した1984年に一度だけ決勝に進出したが、決勝で先述したレンドルに2セットアップのリードを奪い、あと1セットを取れば優勝のはずだったのだが、その後にレンドルが奮起。3-6, 2-6, 6-4, 7-5, 7-5の5セットマッチで彼が勝利した。

マッケンローのサーブ&ボレーは、ヨーロッパのクレーコートにはあまり適していなかった。シングルスで7つのメジャータイトル、ダブルスで9つのグランドスラムタイトルを獲得したマッケンローは、歴代の偉大な選手の一人としてテニスの歴史に名を刻んでいる。

ピート・サンプラス

 
 
 
 
 
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アンドレ・アガシ(1999年)、ロジャー・フェデラー(2009年)、ノバク・ジョコビッチ(2016年)は、ローラン・ギャロスでの優勝でキャリア・グランドスラム・タイトルを達成しているが、”ピストル・ピート”と呼ばれた偉大なレジェンドは、ローラン・ギャロスでの優勝がキャリア・グランドスラムの達成に1つ足りなかった。

ピート・サンプラスは、BIG3に記録を破られるまで、男子ツアー最多の14回のグランドスラム・タイトルを持っていた。彼のパワフルなサーブ&ボレーゲームとアグレッシブなプレースタイルは、ヨーロッパのクレーコートでは通用せず、全仏オープンでは一度も決勝に進むことができなかった。彼の最高成績は、1996年に準決勝に進出したときのもので、エブゲニー・カフェルニコフに7-6, 6-0, 6-2で敗れている。

ローラン・ギャロスで優勝すれば、サンプラスはキャリア・グランドスラムを達成した9人のうちの1人となるはずだった。しかし、ロジャー・フェデラーに破られるまでの記録である14回のグランドスラム・タイトルや、今シーズンにジョコビッチに破られた6回の年末世界ランキング1位獲得など、その他の記録的な功績を考えると、彼のテニス史における地位は確固たるものになっていると言える。

ボリス・ベッカー

 
 
 
 
 
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サンプラスと同様、史上最高のサーブ&ボレーヤーであるベッカーも全仏オープンで優勝することができず、キャリアグランドスラムを達成することができなかった選手だ。ベッカーは全仏オープンの準決勝に3度進出し、全て敗退している。

しかし、ベッカーが全仏オープンで優勝できなかったことよりも驚きなのは、彼がクレーコートのトーナメントで6回の決勝進出(うち5回はATPマスターズシリーズ)をしているにもかかわらず、キャリアを通じてクレーコートでのシングルスタイトルを獲得していないという事実だ。だが、ベッカーが獲得した6つのグランドスラム・タイトルは、歴代の偉大な選手として評価されるのに十分なものと言えるだろう。

ステファン・エドバーグ

エドバーグも全仏オープンで優勝できなかったレジェンドの1人だ。彼のローラン・ギャロスでの最高成績は、1989年に決勝に進出したときのもので、圧倒的な人気を誇ったマイケル・チャンとの対戦だった。しかし、結果的には6-1, 3-6, 4-6, 6-4, 6-2の5セットでチャンに敗れた。エドバーグのサーブ&ボレーのスタイルは、全仏オープンで優勝した同国のビヨン・ボルグやマッツ・ウィランダーのベースラインスタイルとは対照的で、かなり苦しめられていた。

エドバーグは、全豪オープン、ウィンブルドン、全米オープンをそれぞれ2回ずつ制し、国際テニス殿堂入りを果たしている。

ビヨン・ボルグ

昔のツアーには、コートそれぞれのボールスピードに著しい差があったため、適材適所にプレーをこなすグラスコートのスペシャリストと、粘り強いパワープレーを武器にするクレーコートのスペシャリストの二極化が顕著だった。しかし、クレーコートとグラスコートを制覇した2wayプレーヤーが、ハードコートのグランドスラムで優勝できなかったケースはとても珍しい。

ビヨン・ボルグは、1974年から1981年にかけて、ローラン・ギャロスで6つのタイトル、ウィンブルドンで5つのタイトルを獲得し、テニス界を牛耳っていた。しかし、ボルグは、ハードコートでのグランドスラムを優勝することができなかった。10年以上のキャリアの中で、全豪オープンに出場したのは、まだグラスコートで行われていた1974年の1回だけだったが、ボルグは全米オープンの決勝に4回(1976年にクレーコートで1回、1978年、1980年、1981年にハードコートで3回)進出して、いずれも惜しくも敗れている。

(画像=rafaelnadal)