最強フォアハンドの代償 — ベレッティーニ、全仏で示した「振り下ろすほど壊れる」武器の物語

2026年6月3日、ローラン・ギャロスのフィリップ・シャトリエ。マッテオ・ベレッティーニは、左股関節を押さえながらコートを去った。準々決勝、同胞アルナルディ相手に第2セット2-5。試合後の記者会見で、彼はこう言った。

「棄権したくないのは僕が一番だ。本当にうんざりしている」 (原文:”I’m the last one that wants to retire. I’m so tired of it.”)

この一言に、過去5年の彼のすべてが詰まっている。2021年ウィンブルドン決勝進出、2022年1月に世界6位——そこから腹斜筋、右手、足首、腹筋の負傷が連鎖し、過去4年で7つのグランドスラムを欠場。それでも彼は何度でも戻ってきた。

今回の全仏は、その「何度でも」の最新章だった。世界105位で5年ぶりに本戦へ。クレーを最も苦手としてきた男が、ベスト8まで駆け上がった。だがそのベスト8で、彼の最大の武器「マルテッロ(金槌)」が、皮肉にも彼自身を壊した。今日はこの「マルテッロのパラドックス」を、全仏の戦い・怪我の歴史・フォアハンドの技術論という3つの角度から見ていきたい。

5年ぶりの全仏で起きた「奇跡の8日間」

ベレッティーニにとって2026年全仏は、2021年以来5年ぶりの本戦出場だった(2022〜2025年はすべて欠場)。大会開始時の世界ランクは105位。それがどこまで勝ち上がったか、まず戦績を見てほしい。

ラウンド相手スコア試合時間
1回戦フチョビッチ6-7(2), 7-5, 6-1, 6-2 ○3時間9分
2回戦ランデルクネシュ(第22シード)6-4, 6-4, 6-4 ○2時間17分
3回戦コメサーニャ7-6(3), 5-7, 6-7(4), 6-4, 7-6[15-13] ○5時間13分
4回戦セルンドロ(シナーを倒した男)6-3, 7-6(2), 7-6(6) ○2時間32分
準々決勝アルナルディ(同胞)5-7, 2-5 棄権(左股関節)2時間

出典:Roland-Garros 公式マッチページ

ハイライトは間違いなく3回戦だ。5時間13分の死闘、最終セットのスーパータイブレークでマッチポイントを2本しのいで15-13。試合後、彼は涙ながらにこう語った。

「正直に告白すれば、もう戻れない、コートで気持ちよくプレーすることはできない、と思った瞬間が何度もあった。だからこそ感情があふれた。もう一度自分自身に証明できたんだ——戦えるし、楽しめるし、これができるんだと」 (出典:Roland-Garros 公式

そして4回戦では、第1シードのシナーを破って勢いに乗るセルンドロを完封。この試合こそ「マルテッロ」が完全に機能した一戦だった。大会公式はフォアハンドのウィナー25本、総ウィナー51本と記録している。クレーを苦手としてきた選手が、クレーのグランドスラムで2度目のベスト8。この事実だけで、彼の復活がいかに本物かが伝わる。

なお、棄権という結末にもかかわらず、この快進撃でランキングは105位から48位へと急浮上した。

7つのGSを失った5年間 — 「医師も僕と会うのに疲れている」

ベレッティーニの全仏での輝きを正しく理解するには、彼が背負ってきた負傷の歴史を知る必要がある。これは網羅すると、めまいがするほど長い。

すべては2021年に始まった。ウィンブルドン決勝に進出し、翌2022年1月に世界6位に到達——キャリアの絶頂。だが同じ2021年、すでに最初の腹斜筋負傷(全豪R16棄権)が起きていた。そして年末のATPファイナルズで再び腹筋を痛めて棄権。本人はこの頃の心境をこう振り返っている。

「フルパワーでサーブするためには『勇気を持て』と自分に言い聞かせる必要があった。あれほど鋭い痛みを経験すれば、容易ではないんだ」 (出典:Tennis Majors

その後の流れを、ごく主要なものだけ並べてもこうなる。

  • 2022年3月:右手の手術。Miami棄権後にスペインで手術し、クレー4大会+全仏を欠場(ATP公式)。利き手へのメスは重い。
  • 2023年4月:右内腹斜筋グレード2の断裂。本人が「grade 2 tear」と明言、再び全仏を含む複数大会を欠場。
  • 2023年8月:全米R2で右足首靭帯断裂。ラリー中に転倒し車椅子で退場、約半年離脱。
  • 2025年5月:Romeで腹筋再発。コート上で涙。「Romeは目標の一つだった、棄権したくなかった。医師たちも僕と顔を合わせるのに疲れている」。これで全仏2025を含む夏のシーズンを丸ごと欠場。
  • 2026年1月:全豪を腹斜筋再発で直前棄権。そして今回の6月、全仏QFで左股関節——本人いわく「この部位はよくわからない」新しい負傷。

ATP公式の声明が、端的にこの5年を要約している。「過去4年で7つのメジャーを欠場した」(ATP公式 2025/8)。

それでも彼は折れなかった。2024年にはMarrakech・Gstaad・Kitzbühelを制し、Davis Cupでイタリアを優勝に導き、ATPのカムバック・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞している。

「数か月プレーできなかった後で、コートで再び調子よく、競争力を感じられるのは本当に特別だ」 (出典:ATP公式

ここで注目したいのは、彼の故障の「傾向」だ。腹斜筋・腹筋系の負傷が異常に多い。確認できるだけで8回以上。そしてこれは偶然ではなく、彼のプレースタイルそのものと深く関係している。それを次の技術論で解き明かす。

第3部:「マルテッロ」の技術論 — なぜ強く、なぜ自分を壊すのか

ベレッティーニのフォアハンドは、イタリア語で「Il Martello(金槌)」、英語圏で「The Hammer」と呼ばれる。長年のコーチ、ヴィンチェンツォ・サントパドレが少年時代から磨き上げた武器だ。2023年に13年の師弟関係を解消したとき、ベレッティーニはこう書いた。

「あなたなしでもマッテオ・ベレッティーニは存在しただろう。でも『マルテッロ』は存在しなかった。ありがとう、ヴィンツ」 (原文:”Senza di te ci sarebbe stato Matteo Berrettini, ma non ci sarebbe stato ‘il martello’.” / 出典:Ubitennis

技術①「ピストル・グリップ」という秘密

マルテッロの土台は独特のグリップにある。セミウェスタンを基本にしつつ、**人差し指を他の指から明確に離して握る「ピストル・グリップ」**だ。イタリアの技術アナリスト、ルカ・バルディッセラは2019年の現地観察でこう分析している。

「マッテオは右手の人差し指を他の指からはっきり離して握る。これにより感覚が増し、指の関節がグリップをより前方で支えながら『感じ取る』ことができる。これが俗に言う『ピストル・グリップ』だ。知覚・タッチ面での優位性は顕著だ」 (出典:Ubitennis 2019

このグリップで、コンパクトなテイクバックから腕にラグ(遅れ)を作り、インサイドアウトに振り抜く。196cm・95kgの巨体を、元世界1位のジム・クーリエは「ラグビー選手かラインバッカーのようだ」と評した。その体格全体を体幹回転で爆発させるのが、マルテッロの正体だ。

技術②「Serve+1」— フォアが本当に怖くなる仕組み

ただし、マルテッロが真に脅威になるのは、単体ではなく**サーブとセットの「1-2パンチ」**として使われるからだ。2019年からチームに加わったATP公式戦略アナリスト、クレイグ・オシャネシーが、まさにこの戦術を最適化した。

「彼はサーブを使い、ラリーを組み立てて、攻撃的なフォアハンドを打てる状況を作り出す」 (オシャネシー、出典:Tennis.com

オシャネシーの哲学は明快だ。「ポイントの大半は0〜4ショット以内で決まる。Serve+1のフォアハンドこそ現代テニスの核」。ベレッティーニはこの戦術の完璧な体現者と言える。強烈なサーブで相手を崩し、返ってきた甘い球を1球目のフォアで仕留める。実際、2025年モンテカルロのズベレフ戦では、ATP公式が「48ショットのラリーをフォアハンド・ウィナーで制し、第2セットは1stサーブ15ポイント中14本を獲得」と記録している(ATP公式)。

サントパドレ自身も、サーブとフォアを最重要視する哲学を語っている。

「サーブは他のショットと同じか、それ以上に扱うべきだ。セッションの最後の付け足しのようには練習しない。練習の真ん中でもサーブをやる。それを毎日続ける」 (出典:Tennis Magazine Italia

技術③ 公平に見たバックハンドという弱点

マルテッロを語るなら、その裏返しも公平に書くべきだろう。ベレッティーニの両手バックハンドは、フォアに比べると相対的な弱点とされる。これは対戦相手も解説者も統計も一致している。

2021年ウィンブルドン決勝展望でパトリック・マッケンローは、「彼はジョコビッチよりも大きく球を打つ」と最大級に讃えつつ、こう付け加えた。

「ジョコビッチはバックハンド側を攻めにくるだろう。そちらが彼の弱いサイドだから」 (出典:ESPN

実際の決勝で、ジョコビッチは1stサーブをフォアのワイドへ高速で、2ndサーブをバックへ遅いキックで打ち分け、マルテッロを封じた。ブラッド・ギルバートも2019年全米でナダルがどう戦ったかについて「準決勝でベレッティーニのバックハンドを徹底的に崩した。徹底的にだ」と語っている。

ただしベレッティーニは、この弱点をバックハンドのスライスで補強してきた。その起源は、意外にも怪我だった。

「17歳のとき左手首を痛めて、右手だけならプレーできた。そこでヴィンチェンツォが言ったんだ。『これを機会に、まだ取り組んでいない部分を伸ばそう。バックのスライスを磨こう』と。それ以来、スライスは本当に強力な武器になった」 (出典:Ubitennis 2025

怪我を武器に変える——これは彼のキャリアそのものの縮図でもある。

まとめ:振り下ろすほど、壊れる

ベレッティーニの2026年全仏は、二つのことを同時に証明した。ひとつは、彼のテニスがまだグランドスラム上位を狙えるレベルにあること。もうひとつは——QFでの股関節棄権が示したように、彼の最大の武器が、そのまま体への最大の負荷であるという残酷な事実だ。

棄権後、彼はこう言った。

「プレーすればするほど、サーブすればするほど、フォアハンドを打てば打つほど、悪化していった」 (出典:ATP公式

マルテッロを振り下ろすには、強靭な体幹がいる。その体幹こそ、彼が何度も痛めてきた場所だ。強く打つほど、自分を削る。これが「マルテッロのパラドックス」である。

それでも——過去4年で7つのメジャーを失い、世界6位から100位圏外まで落ち、それでもDavis Cup3連覇、カムバック賞、そして全仏ベスト8。彼の回復力は、マルテッロと同じくらい強靭だ。全仏初戦のあと、彼が残した言葉で締めくくりたい。

「すべての挫折、すべての怪我、すべての悪い瞬間を経て、僕はもう一度戻ってきた」 (出典:Roland-Garros 公式

その「もう一度」が次に聞けるのは、芝のシーズンになるのかもしれない。マルテッロが再び振り下ろされる日を待ちたい。